自分の死生観を見つめ、いま幸せになる
全ては自分の世界観
私は「あの世」があると思っています。
死んだ者は魂になってあの世という世界に行くと考えてます。
「あの世」がどういう世界なのかは、もちろん、分かりません。
この世から遠く離れた天上の世界なのか、この世とレイヤーのように重なる世界なのか、定かではありません。
それは、特殊な能力(霊能力や霊感)とかもありませんので、自分の五感で体感できないからです。
ただ「信じる」だけです。
ですので「あの世などない」と言う人がいてもそれはそれでいいです。
その人がそう信じているだけだ、と思うからです。
分かりあう必要はない、ということです。
そもそも「あの世はある」と言う人にだって、色々なあの世観があります。
天国地獄もあれば、天使がいたり、閻魔様がいたり、三途の川があったり、お星様だったりいろいろです。
結局はあの世の証明はできません。
※この場合の証明とは100人いれば90人は納得するような自明の証しのこととします。
どんな世界を信じているか、だけだと考えます。
ちなみにぼくの「あの世観」
この世の人は、あの世の人(=霊)は見えないし聞こえないし触れませんが、あの世はあります。
感知できないからと言って「存在しない」わけではないと考えます。
あの世はあるけど、この世の人にはわからないだけだ、と思うのです。
あの世の場所
この世とあの世は重なり合っているというのが、まずは私が思うあの世です。
空の上や地下の深いところのような、はるか遠い場所にあの世があるとは考えません。
基本的には、この世に重なり合う領域にあの世はあって、そこら中に霊たちが存在していると思います。
ただし、地上だけにいるわけでなく、天上やら地下やら宇宙やらと、はるか彼方までも含めた広大な領域なのでしょう。
そういう意味では、今までのステレオタイプである「お星さまになる」というのもあながち間違っていない気もします。
ただ、いつでもみんながそんなに遠い場所にいるのではなく、もっと身近な場所にもいると思うのです。
この世の人は、感知し得る時空だけを「全世界」だと思っていて、普段はあの世のことなど考えることもなく生活しています。
まぁ、それで良いでしょう。
この世とあの世が区切られていることの意味は「とりあえず今いる場所で頑張るべし」ということの証しでしょうから。
死んだ後の霊たち
あの世に行っても、今生の記憶や人格は保たれるようです。
これが本当かどうかは定かではないですがそういう言い伝えが多いので、そうなのだろう、と漠然とその考えを取り入れています。
この世があった記憶はあるのだとしたら、そういう意味では、あの世の人(=霊)の方が視野が広い、ですね。
あの世の人もおそらくこの世の事柄にさほど関心がないのだと思います。
あの世で自分の為すべきことに精を出しているからです。
あの世に行ってものんびり悠々自適、というわけではなさそうです。
これも定かな話ではないですが、そんなことが多く語られるので、そういうものだろう、と思っています…。
この世でも修行・あの世でも修行、というの考え方は、まぁストイック気味ではありますが、正しいような気もしています。
「成長したい」という想いは、人間の核となる感情だと思うから、それは生きようが死のうがなくならないでしょう。
成長のための努力や挑戦は「大変だけど楽しい」というやつで、おそらく人間を支える大いなる力だと考えます。
そんなわけで、あの世の人も日々頑張っているわけで、この世の事象に気を配ることも少ないだろうと推測します。
…以上、簡単にあの世観を書いてみました。
※いつかもっと詳しく書いてみたいです。
死を前にしてからでは遅すぎる
あの世はあるのか、あるならどんな場所なのか…。
死んだ後の我々はどうなるのか…。
それらは結局個々人の「世界観」によるわけです。
そもそもそんなことは考えない、というスタンスもあるでしょう。
…が、どのようなスタンスをとっていても、とにかく人は死ぬことだけは確かです。
明日かもしれないし、10年後かもしれないし、50年後かもしれません。
でも、いつか、必ず、死にます。
死が必然であるからには、死ぬことを思うこと、は生きているすべての人に必須なのではないかと考えます。
いざ死を前にしてから「死ぬってどういうことだろう?」と思いを巡らせて間に合うのか?
わからないことをわからないままに放っておいたツケが来るのではないか?
死を旅立ちだとすれば、旅立つ前に「旅先のことを知っておきたい」と思います。
今後どこへ行くのか、そこはどういう所なのか、その時の自分はどうなっているのか…。
自分なりの「答え」をもって向かっていきたいと思います。
だから私は「あの世」に関心があります。
結局、必要なのは「信仰」です
旅先である「あの世」の情報は見聞でしか学べません。
死への旅立ちは一発勝負ですので、戻ってくることはできません。
臨死体験した人の経験談や、死後に霊として戻ってきた(と自称する存在の)話を聞くことができるくらいです。
そのほか死に関する不安や疑問に答えてくれるのは「宗教」でしょう。
宗教にもヒントが多く隠されていそうです。
ただし、私は特定の宗教団体に所属するつもりはありません。
「宗教組織」は世俗的な要素で成り立っていることは明らかなので、宗教団体に入って何かを学ぼうとは考えません。
宗教からは、自分の「死生観」「あの世観」を持つためにヒントをもらいたいだけです。
結局は、自分だけの死生観(あの世観)を持つこと、です。
ただそれだけ。
そしてそれは、他人を説得できるような確固とした証拠があるわけではありません。
最終的には「死んでみないとわからない」ものですから…。
生きているうちには誰にもその秘密は明かされないのです。
そうなってくると大事なのは、信じること、です。
「自分はこう信じる」という「信仰」が重要になります。
死に対する不安や恐れがなくなることはないと思います。
また何か人生の奥義を悟れるわけでもありません。
相変わらず右往左往しながら生きる人間のままでしょう。
ただ少なくとも、不安を減らし少しでも平穏に過ごすのに役立つ「心の持ちよう」、それがここで言う「信仰」です。
それはあくまで自分だけのもので、他人に理解や共感を求めるものでもなければ、ましてや強制すべきものでもありません。
自分の心の中にしっかりと抱える思いですね。
それが確固としてものであればあるだけ、死への旅立ちはより良いものになる気がします。
死を思うからこそ生が輝く
確固とした信仰があればあるだけよい、とは言うものの、同時にいつでも柔軟性を持っていなければいけません。
「信仰」は絶対的な真実ではなく、単なる「妄想」の類です。
合っているかもしれないし、間違っているかもしれない。
だからこそ、その場・その時に柔軟になれるかどうか、でしょう。
事前にそこは暖かい国らしいと聞いていたのに、行ってみたら寒い国だったからといって、暖か信仰にこだわって薄着をしていたら風邪をひいてしまいます。
柔軟に対応したいものです。
自分の思いをしっかりと抱えつつ、でも変化していくことを厭わない柔軟性。
生きているうちにこういう資質を磨くことも重要です。
それってつまり「より良く生きる」ってことですよね。
死ぬことやあの世を考え続けると、いつかは巡り巡って「どうよりよく生きるか」という問いにたどり着きます。
死への旅立ちという、いつ来るかわからないような不確かな未来のことを思うことも大事ですが、「生きている今この瞬間」という足元もおろそかにしてはいかんわけです。
遠くを見つつ足元も見る、といういかにも人間臭い格言こそが、真実なのだろうと思う次第です。
生きている今に感謝しつつ、死を思いたいです。