信仰を持ちたい
信仰を持つ人たち
妻が病気の時、彼女は心を強く持つために「信仰」を求めました。
信仰と言っても特定の宗教団体や宗派を意味するわけではないです。
たとえばお経。
般若心経を唱えたり聞いたりすることで心を鎮めようとしていた時期がありました。
そして聖書。
当時、自分の患者さんの中にクリスチャンの方がいました。
私よりも年下でしたが、その方は10代の頃にキリスト教会で自分の悩みが救われたことで信仰の道に入ったという方で、日曜日ごとの礼拝に行っており、その生き方には一種の「強さ」のようなものを感じていました。
その人に妻のことを話をしたところ、家にまで来てくれて妻と話し・相談に乗り、聖書を読むことを勧めてくれました。
妻も読み込むほどではなかったですが、「神様と一緒にいる」という感覚を少しでも得ようとお祈りのようなことはしていました。
あ、ちなみ、
これらは私も一緒にしてました。
私自身もまた何かに救いを求めていたというのもあります…。
それ以外にも、それまでで特定の宗教を信じている人とも関わったことがありましたが、それらの人たちに共通するのは「生きていく上で一本筋が通っている強さ」があることでした。
生きているとつらい事や悲しい事があるけれど、死生を通じた自分を支える価値観を身近にもっているので、それに支えられ強く生きられているようでした。
神様の愛はや仏様の慈愛はいつでも自分に寄り添ってくれる、という強い信仰です。
これらの価値観は、弱った時や困った時に急に仕入れても、すぐには身につかないものです。
平時から身近にあるので有事に役立つというものです。
積み重ねていること、が大事なわけです。
自分だけの信仰が大事
私たちはその時はまだ30代前半で、それまで人生を賭けた大きな危機に直面したこともなければ、身近にそういう人がいたわけでもなかったのです。
頭で考える死生観のようなものはあったし、一般的な道徳心のようなものもありました。
でも「どう生きるか?」「死ぬとはなにか?」「生きる上で何が大事なのか?」「後悔しない生き方とは何か?」とか、そんなことを身近に抱えて積み重ねてこなかったわけです。
人生の危機という、フラフラと倒れそうな時に本当に頼れる「杖」のようなものを持っていなかったのです。
その経験を踏まえて、平常時から「信仰」を持つことの重要さを痛感しました。
それは何も特定の宗教団体に入らなければならないわけではありません。
むしろ、
宗教組織に入ることの弊害を私自身は感じています(なので勧誘はお断りいたします…苦笑)。
組織にいると組織の論理や政治が働きます。
それは信仰ではなく単なる人間社会の縮図です。
そういうことではなく、あくまで信仰という名の自分を支え導く指針(価値観)が欲しいのです。
(もちろんこれは私個人の気持ちなので、他の人が宗教組織に入ることは何ら問題ないです…。)
私自身は「霊こそ主たる存在で、この世は肉体をまとった霊が成長するために存在する学校のような場所/時間である」という価値観を持ちます。
それは若い時から頭では理解していたし尊重していました。
その「知識」をいかにに自分の「血肉」にするか、なのでしょう。
それは平時からそういう価値観を抱えながら生きることで、ゆっくり積みあがっていくものなのだろうと思います。
人の生死はどうなるか分かりませんが、とりあえず今はそれを積み重ねる日々を過ごしています。
人生は続く。