30代で妻を亡くしてから10年、気持ちの変化

死別から10年たち、どのような気持ちの経過をたどったかを書いてみようと思いました。
自分の場合は、「ショック」→「罪悪感」「寂しさ」「前向きな気持ち」というプロセスでした。
後者3つは同時並行的に進んでいっています。
前向きさとは「この出来事が自分の成長に大きく貢献している」と感じられることです。
もちろん今でも、そういった前向きな中に、罪悪感や寂しさはあります。
それらネガティブな思いが無くなることはないでしょうし、それでよいとも感じます。
そんな流れを少し書いてみます。

精神的打撃/麻痺状態

配偶者の死は精神的なショックやストレスが格段に大きいとの研究結果も出ています。
子供を亡くした人・親を亡くした人・友人を亡くした人に比べ、配偶者を亡くすことがそこまで特別なのかは私には分かりませんが、やはり最初にくるのは死別のショックです。

妻はガンで亡くなったので、少しずつ衰弱していく過程での最終局面が「死」でした。
なのでショックは当然あるのですが、急死のような状況の方に比べるとはるかに衝撃は少ないと感じました。
受け入れがたい気持ちが半面ありつつも、来るべきものが来たという意識もあるわけです。

自分の話に戻すと、
実際に死を見届けた時は、自分の身体が半分無くなったような空虚な感覚になりました。
スースー心もとない感覚は、人生で初めての感覚でした。
「胸に穴が開いたような…」などとよく言われますが、これって本当にあるんだなぁと感じたことを鮮明に覚えています。

一言で言えば、圧倒的空虚感でした。

自分にはなかった段階

死別後に感じるようになる感覚として、以下のようなものもあるようです。
自分はこれらの感覚をほとんど感じませんでした。
ここでは、そういう人たちもいる、ということで紹介します。

しかし、私がこれらの感情を「死別後」に感じなかったのは、すでに「闘病中」にイヤというほど味わったからだと考えます
様々な感情の激風は、妻が生きているうちに散々感じてきたので、死別後に訪れた感覚はあくまで「空虚」でした。

現実の否認

愛する人の死を受け入れられない時期が来る人もいるようです。
「信じられない、これは現実じゃない…」と。

パニック

現実に起こっていることと自分の希望などが葛藤して、混乱してしまいます。
人によっては日常生活に支障をきたす事もあるようです。
その場合は、ご自身が病院を受診して、医療的なケアを受ける事をおすすめします。

怒り・妬み

なぜ私の愛する人が死ぬの?
なんで私だけこんな思いをするの?
…と、不条理な悲しみ・苦しみが「怒り」となります。
医者や病院や災害など、死と関連のあった事象に対して不当な怒りを感じたりもします。

また、周囲の「幸せそうな」人々に妬みを感じたりすることもあるようです。

罪悪感

空虚感は死別の最初期に感じましたが、同時に「やり切った感」も感じていました。
コミュニケーションやケアや介護や育児家事など…「よくやった」と、自分自身に対して肯定的な思いも持っていました。
できることは全てした、という感覚です。
それは今もなくなっていませんが、少し落ち着いてから私自身にやってきた思いは罪悪感でした。

「もしあの時ああしていれば…」と、自分の過去の行動を悔やみ、罪悪感を抱きました

もっと他の選択をしていたら結果が変わっていたのではないか?
これもしておけば良かった、あれもしておけば良かったと思うことが多くなっていきました。

この感覚については、今でも持ち続けています。
闘病中もその時その時、左右の道のどちらかを選択することを迫られてきたわけです。
右を選べば左は選べないわけです。
右を選ぶことに誠意を尽くしたつもりなので、その時の選択には後悔はありません。
ただし、結果的には妻は亡くなったのだから、あの時に左を選んでいたら違った結末を迎えられたのではないか?という思いは消えません。

これはずっと抱えて生きていくのだろう、と思っています。

孤独感

孤独感というか「寂しいな」とは感じます
どんなに精神的・霊的なつながりがあると考えても、物理的な存在感がないのはやはり寂しいですね。
引きこもったり、うつ状態になってしまうようなことはありませんが、そうなる人がいることも理解できます。

私の場合は、子供の存在が寂しさを和らげてくれるうえで大きかったです。
子供がいたので「寂しいな…」程度で済んだと言えます。
子供たちも妻の死に大きく影響受けることはなく乗り越えたように感じました。
(あくまで当時心身に変調をきたさなかった、という意味で。)
子供たちの明るさ・素直さ・前向きさには大きく救われています。
その当時も、そして今も…感謝しかありません。
妻の忘れ形見であるというのも大きな意味を持っていたと思います。

前向きな気持ち

そのうちに前向きになって笑顔を取り戻せるようになってきます。
死別の時にどんなに苦しくても、必ずなります。

これは悲しみの時期を通りぬける、というよりは、同時並行的に起こってくる現象だと思います。

どんなに悲しみつつも、笑える時もあります。
怒りを胸に秘めつつも、穏やかになれる時もあります。
ただその濃度が、時間を経ると、悲しみの減少と前向きさの増加になってきます

私に関しては、やはりここでも子供の存在が大きかったです。

小さな子供たちの過去にとらわれず未来を向いている姿勢。
今日という日を生きている姿勢。
そんな姿から、こちらも元気をもらいました。

また同時に、こんな小さな子供たちを何とか育てていかなきゃならないという使命感も前向きになることに貢献しました。
愛する者を守りたいという純粋に親としての使命感でもあり、「オレがしっかり育てるよ」という亡くなった妻との(こちらからの勝手な一方的な)約束でもありました。
これはもう「義務感」です。
日々の暮らしを頑張っていくことは、自然と自分の気持ちを前向きにしていきました。

時間という薬

今現在は、諦観や受容の段階と言えます(たぶん)。
大事な存在であった妻と死別し、この世ではもう会えないという事実を受け入れている段階です。
時間とともに、ツラい気持ちは薄れ、日々の生活の大事さを抱える気持ちが強くなりました。
良くも悪くも「忘れ行く」わけです。

人生の意味というか、起こりうる事を全うするのが私たちの使命なのでしょう。
これも死生観に思い巡らせる時間が長くあったからだと思います。
元々「生とは?死とは?」という問いを長く抱えてきたし、闘病中にそれが加速され本当にいろいろな思いを巡らせました。
死別後にも考え続けています。
とくに「あの世」はある、という思いを強く持ったのは大きいと思います。

時間は死別を経験した者にとって良い方向に作用することを体験しました。
人生のピンチに耐えたからこそ、より成熟した人間へと成長することが出来るのだと考えて生きています。

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